2013年8月19日月曜日

グローバル化と英語教育

 多くの企業が、世界を相手に製品を輸出し、あるいは、世界各国で製造販売をする事が、企業が生き残る為の必然であるという。その為には、誰もが英語で話せるようになる事が必要であり、会社では公用語を英語としたり、学校でも小学校から英語教育を導入する必要があるらしい。

 日本人は英語の読み書きは出来るが、会話が出来ない。

 人は自分が聞きたいと思う言葉を容易に信じる。もっともらしく、なるほどと思う説明は、何ら根拠の無い嘘でも、容易に受け入れられ広く信じられ、世の常識にさえなってしまう。「日本人は英語の読み書きは出来るが会話は出来ない」というのは、「読み書きも、会話も出来ない」と言われるのに較べ、全否定でないだけ受け入れ易い。結果的に、誰が言ったのか知らないが、このような受け入れ易い嘘が、広く世の中に浸透した。

 私は、アメリカの大学で日本から来るポスドクの人たちを見ていて、最近の若い人たちは、かなり日常的な英会話がましな人が増えてきたと感じていた。「英会話が出来ない」部分はかなりましになりつつ有るというのが私の実感である。しかし、新しく来るポスドクの人たちの中で、出来ることになっている「英語の読み書きは出来る」という日本人は実は見た事が無い。ポスドクとしてアメリカの大学に所属すると、まず簡単な説明会が有り、雇用関係、税金、健康保険等についての説明を受け、書類を渡される。これらの書類を自分で読み理解できる人はほとんど居ないように感じていたものである。特に、日本では、組織に属していれば、税金も健康保険も、自分で選択して手続きをとる必要はほとんどなく、認識にもギャップが有る。

 日本人は、会話に加え、特に英語の読み書きが出来ない。英語の読み書きを教えることのできる教師が、中学校、高校にいないのであるから、これは当たり前の話である。英会話であれば、録音を聞かせてリピートすることもできるが、学生に長文を書かせて、それを直すことのできる教師は、中学、高校には皆無に等しいと行っても過言では有るまい。大学の教養でも、英語の教師は、英文学などの専門家であり、教材は文学関係となる。その結果、法学部の学生が専門分野の英語を身につける為には、自己学習となり、科学系の学生に取っても事情は同じである。ある程度の英語の読み書きを推進するならば、中学、高校、大学の英語の教材に、文学、社会、理科の3分野の内容を盛り込む事が必要である。現在の英語教育では、大学まで英語を学んでも、アメリカの小学生と算数の話も出来はしない。

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